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井上浩郷 (こう ごう) 歴史探偵 誕生の由来
<不思議な夢> 追跡24周年記念公開
(本文は下段より2番目)
「江戸の終わり」の人物は高祖父孝明天皇統仁(おさひと)。
「江戸の始め」の人物は祖母貞明皇后の先祖で藤原南家中興の祖宮本武蔵、
養父藤堂高虎 戦死後、養祖父の支持で藤堂高虎二代目を襲名。
実質的には江戸260年間、太平の世を布石した史上最大級の人物 (多種号を駆使)。
[ 御 参 考 ]
藤堂高虎二代目では初代の誕生日を起源とし又、二世代情報を重ねている。詳細情報
には検討の余地あり。然し重要なのは肖像画は本人で、還暦祝の宮本武蔵の姿である。
「夢から覚めたときバスタオルを巻いた枕がぐしょ濡れであった。
一晩中、私の体を通して涙した祖霊を認めざるを得なかった」の人物は実父昭和天皇裕仁。
(2012年1月23日 旧暦元旦 公開)
<浩郷 :名前の由来>
[父方祖母貞明皇后(こうごう)を記念して命名]
「実父昭和天皇裕仁(ひろひと)は訓読み浩郷(ひろさと)を密命」
<浩郷 :実父の密想>
「実母智枝と嵯峨浩(浩:ひろ・こう)は同年齢、実父乳母の川村花子は父川村純義、母春子は西郷隆盛(郷:ごう・さと)と親戚」
[小林隆利牧師の母仁(しのぶ)は川村花子と明治天皇の間に誕生。花子は実父乳母の後、伯爵柳原義光と成婚]
<浩郷 :誕生の秘話>
[実母智枝:2009年7月25日没、三回忌の真実]
実母智枝と養父井上朝良(雉宮)の五番目の男子として誕生。
宿命的には実父昭和天皇裕仁の三男[実子]として誕生。
風雲告げる大戦末期に両親の下で保護・養育。
(2011年3月28日 掲載)

1959年(昭和34年)春:愛知県高浜町 大山公園にて:養父49歳 実母44歳 浩郷14歳(中学3年生の春)
祝 1909年11月3日(実際は12日)誕生:養父井上朝良 生誕100年記念日。
(養父朝良 の 父親大正天皇 、祖父明治天皇 、曽祖父孝明天皇)
祝 1809年(旧暦8月13日)誕生:高祖父横井小楠 生誕200年記念日。
(養父朝良 の 母親貞明皇后 、祖父横井時雄 、曽祖父横井小楠)
横井小楠は合衆国大統領ジョージ・ワシントンに見習、自由・民主・平等を提唱
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<養父 井上朝良(ともよし)の系譜>
1909年(明治42年)11月3日誕生<明治天皇生誕と同日:実際は12日>
養父 朝良(血液O型)は藤原系母:貞明皇后と朝廷系父:大正天皇の四男として誕生し、面がまえは父系祖
父:明治天皇似であった。
実は養父 朝良の満12歳誕生日の翌日、原 敬 首相 暗殺事件に連座して母方系祖父:横井時雄(井上家)の
六男として入籍し隠遁生活に入る。
祖父:横井時雄が井上姓を襲名した経緯は5歳の時に横井小楠が江戸で密談中、刺客に襲われ闘わずし
てその場から身をかわし逃亡:士道忘却罪(武士道)に問われた。<阪本龍馬も弟子と伝わる>
その父親 横井小楠の窮地の中で一人息子の保護亡命の為に井上家(一族系)の跡目養子に入った。
現在の熊本駅より南熊本駅一帯の田畑と花岡山一帯で、義兄には鉄道王 井上勝と弟の明治憲法草案者
井上毅は横井小楠の弟子であった。
実は横井時雄と号井上円了とは同一人物である。
1909年大日本製糖疑獄事件に巻き込まれた井上円了は創立した哲学館大学と長女貞明皇后の名誉を守
るために学長を穏便に辞退し刑に服した。そして刑務所で木工家具技術を身につけて、才能を発揮し、大正
家具ブームの先駆けと成った。
横井時雄が60〜61歳の時、中国大連市で号井上円了は病死を名目に葬儀を執り行った。
実際は時雄の長男源八の子息 英一が大連市留学先に於ける悲しい急病死(多分インフルエンザ)であった。
この葬儀を号井上円了60〜61歳没の名目的葬儀とし東京に墓標を造営した。
次に大分県別府市で号横井時雄が没した・・・!?
・・・実は米国エール大学へ共に留学した2歳年下の某親友が脳梗塞で倒れ、10年間病んだ末の病死を号
横井時雄70歳の葬儀とした。実祭は最後の最後まで様々な活動の末、熊本県人吉市で79歳9ヶ月、初秋に
母(智枝)が半年間、看護し臨終にもみとられて息を引き取った。
三回目は身内でしめやかに葬儀をした秘密の多い風雪の曾祖父(戸籍上は祖父)であった。
養父 朝良の両祖父「横井時雄と明治天皇」は両者の父「横井小楠と孝明天皇」共通の教訓(暗殺)と危機管
理 即ち両者内意による皇統孫保全策の為に養父 朝良を隠遁亡命させた。<養父はこの真意を見事に遂行した>
養父の母方系 異母(先妻)叔父で戸籍上・四男の兄、歯科医師井上藤吉の家族として生活を共にした。
日本には100年程前は現・東京歯科大学<当時・高山歯科医学院>しか無かった。二番目に現・日本歯
科大学<当時・共立歯科医学校>が新設された。この新設大学の第一期で特待入学した井上藤吉、妻と娘
信子の家族として、また東京五反田で開業した歯科医院で助手を勤めた。

早稲田大学野球部時代 前列左より7人目(右より2人目) 2011/1/13/掲載

現・日立製作所野球部時代 中列左より5人目(右より5人目) 2011/1/13/掲載
最終学歴は1927年(昭和2年)春に早稲田大学 理工学部 機械工学科に入学し、血気盛んな青春期に叔父
の下に何時までも世話に成る気まずさからか、大学3年生より理工学部の昼間授業を辞退し、1929年(昭和
4年)春より生活共に自立を志し開校二年目、夜間授業の早稲田高等工学校の授業を選択し、1931年(昭和
6年)春 早稲田大学 第二部機械工学科の卒業証書を授与された。(注意:初等教育は「数え歳」で入学)
就職は東京瓦斯電機(現・日立製作所)に入社し、学生と会社時代を通して野球部に所属し、ピッチャー
で活躍した。
1932年(昭和7年)5月2日に母(杉浦智枝)と品川区五反田の雉子神社(雉子宮)で結婚した。
〜秘かな事情から翌年1933年(昭和8年)初秋に婚姻届をしている〜
結婚当初、まだ学生服で会社に勤務していた養父は母と一緒に出掛けた時、「チョッと待っていて!」と言って、
暫くしてスーツ姿で現れ「質屋で交換してきた!」・・・と。
実の両親(天皇 皇后)とは特殊な情況に置かれ、孤独に耐えた少年期。赤貧手洗う如き貧乏学生時代を忍
んだ一徹な養父のエピソードだ。 (2008年11月1日掲載:2010年10月7日追記)
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<父方祖母の実父 横井時雄(ときお)の系譜 >〜戸籍上は父方祖父〜
横井時雄の本姓は熊本藩系譜:初代 宗像清兵衛(号・宮本武蔵及び多種号を使用)の後妻系(三男)
宗像少右衛門(松平伊豆守信綱)の男系で連綿と続く宗像清兵衛以来、10代目が宗像清左衛門
(素八、
号横井松楠 初代)で一般に写真掲載されている人物である。
実は11代目 宗像三右衛門(萬喜)は吉田松陰 - Wikipediaと号し、安政の大獄の処刑カモフラージュの為に
長州藩主毛利慶親に御前講義を成し、その存在記録を残した。
実は毛利家4代目藩主以降とは熊本藩宗像清左衛門(素八)とは藤原氏吉川一族系であり、宗像清左衛門
(素八)は横井松楠と号した。
その二男の宗像三右衛門(万喜)は長州藩の萩にいて父親号「松楠」の松を得て吉田松陰と号した。
また三河出の杉浦清右衛門(重文)は師匠の号「松楠」の楠を得て杉浦楠陰と号した。風雲告げる幕末を
前に人材育成のシナリオを整えて行った。
京都に於ける孝明天皇暗殺に連座して少年明治天皇の保護者に吉田松陰と杉浦楠陰が抜擢された。
吉田の姓は一族の祖神社である京都大学地続きの吉田神社に由来し、多大な影響を受けたフルベッキ博士
の誕生と同一年は偶然なのか。年齢を操作し、多様な号を使用する手法は先祖代々、活用した忍法である。
宮本武蔵を号した一族中興の祖は実齢より9歳若くしていた。
安政の大獄では危機一髪、ある人物(目下マル秘)の申し出にすり替え以後、横井小楠 - Wikipedia(ジュニア)を
襲名し、父親松楠は隠居。朋友 勝海舟と再会した時、幽霊かと驚愕したエピソードが伝わる。
熊本の宗像家12代目は横井小楠の後妻が生んだ子息が横井時雄であり、その妹の美屋は同志社大学
総長として名を馳せた海老名弾正の妻である。
横井時雄 - Wikipediaは暴漢の目を回避する為に多様な姓名:日下部姓・伊勢姓・横井姓・井上姓、また友人
の綱島姓等々を使用した。


44:日下部太郎は横井時雄の少年期で、この写真から遭難事故が発生し福井藩から米国留学中の八木
八十八に藩主松平春嶽は横井時雄を守る為に日下部太郎の襲名を命じた。
この写真以来、60歳の還暦まで一切、写真を残さなかった。同志社や教会に掲載されてきた全ての写真は
替え玉である。(2011/2/22掲載)
熊本洋学校・東京開成学校・同志社英学校・東京大学・米国 エール大学大学院に学び、特に教育機関育成
に多大に尽力した。小泉八雲や森鴎外と深くかかわり、従兄弟 徳冨蘇峰と徳冨蘆花兄弟とは家族同然の関
係にあった。また神学者内村鑑三への経済的支援と二人三脚の伝道同行は先祖
沢庵和尚以来の禅説法
ならぬ、福音メッセンジヤーとして聴衆を魅了した。
政治的には明治天皇、西園寺公望のブレーン(知恵袋・党幹事長、外交官、号 珍田捨己)として、また
貞明皇后の実父として明治 大正 昭和の建国に真摯に奉仕した。
<ご参考:珍田捨己(横井時雄)は働きの多様化の都合で経歴、号名を工夫し、或る理由(今は保留)
で6〜7年程早く没した事にした。またネット写真は本人では無い>(2012/1/21/追記)
横井小楠、横井時雄 父子はキリスト教布教、保護者と言う理由から熱心な神宮神信者の暴漢に突き狙わ
れた。しかし史実は1549年にフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト宣教して以来、神宮神とキリスト神と
の比較検討した先祖はその結論として同一神と確定し、伊勢神宮:豊受大神宮(外宮)を造営再興した。
その流れの中で子孫は江戸初期に伊勢神宮:皇大神宮(内宮)を造営し国家の中核的神宮とした。
幕末から明治維新に成って、キリスト教の風にさらされる中、長崎に渡来したグイド・フルベッキ宣教師
(ユダヤ系プロテスタントのクリスチャン)は旧約聖書のヘブライ原語の堪能者であった。
横井小楠 (靖国神社)と横井時雄父子が抱いていた共通の念願は先祖が残した伊勢神宮奉納書簡の解読
であった。このテーマを明治天皇の後ろ盾を得てプロジェクトチームがスタートした。
フルベッキ博士のユダヤ系人脈が世界からぞくぞくと召還され、のべ1000人を越えたと言われる。
その研究結果はキリスト教もユダヤ教の神も神宮神と同一であると結論し、明治天皇(明治神宮)は伊勢神宮
に参拝して世界平和を祈願した。(2010年4月30日掲載)
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<実母 智枝(ちえ)の略歴>
「2009年7月25日早朝没95歳2ヶ月:母(両親)は多くの子宝を残した!」
母 智枝(血液O型)は父母 杉浦源六と八重の長女として1914年(大正3年)6月11日に現:韓国ソウル市
南大門隣接地で誕生。小学校入学(注意:初等教育は「数え歳」で入学)の早春に愛知県高浜に移住し高取
小学校より旧制・刈谷女学校に入学。短距離選手として小学校碧海郡大会で優勝。
女学校愛知県大会で2年連続、銅メダル。卒業後、芸術大学進学を希望するも時代が赦さず、父親源六の
事業活動拠点「東京都葛飾区」に呼ばれ、各種のお稽古事をし、一年後に東京瓦斯電機(現・日立製作所)
に勤務していた朝良(22歳7ヶ月)と1932年(昭和7年)春、17歳11ヶ月で結婚し、次々と子宝にめぐまれ、
朝良は戦中には軍需工場 生産隊隊長(隊員5,000人)として働き終戦後、現・日立製作所を退社した。
1年程の尾山台での生活浪人中、愛知県高浜産の練炭コンロをトラックいっぱい仕入れ、庭に積み上げた
がそこに雨が降り一変で台無しに成った。やがて家族を1946年(昭和21年)夏に母の郷里三河に移住させ、
自身は東京の下町工場で技能労働に携わり、独立事業を模索した。
行ったりきたりの中で母が手織りした反物が東京で売れたのを切っ掛けに、1950年(昭和25年)秋より愛知
県高浜に小規模な織物工場を新築し織機二基と管巻き機を設備して翌年1951年(昭和26年)、浩郷が小学
校に入学した春頃より井上産業織物工場が稼動した。
本格的に生産が軌道に乗ると「問屋、ふとん店」の開拓に全国に出張し、母は右腕として家業と工場運営
に才能を発揮した。かたわら趣味の茶道:表千家と華道:池坊の修練に情熱をかけ才能を開花させ、その道
を極めていった。
1960年(昭和35年)9月29日午前2時頃、養父は母に看取られ末期癌で没した。
<手術しないで入院3ヶ月間、母とすごし安らかに自然死した>
母は残された家族、従業員と一致団結して家業を守り以後、時代に翻弄されるも、ご縁に添い毛布から布
団袋に、そして下着類の縫製業へと変遷。やがて自営業を廃業して茶道、華道の生徒指導に専念する傍ら、
浩郷が1975年(昭和50年)春に横浜で創業した自然化粧医学会の自然化粧品と健康食品の普及を応援した。
又、茶道:表千家では高浜市営の茶道会を設立し、当時、神谷市長に提案して市営・茶道施設を造営、完成
すると初代会長に就任。運営会則では会長2年交代制を確立。茶道:表千家(梵天)及び華道:池坊(家督)
として日本の伝統と文化を愛し、多くの弟子を育てた。
また俳句・短歌と墨彩画では多くの作品を生み、両者共に愛知県知事賞を受賞。唯一の弟子 「墨彩画家
井上浩郷 」 は世界的評価を得る。(2008年1月4日掲載:10月14日修正)
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<実母方祖父 杉浦源六(げんろく)の系譜>
杉浦家は母の曾祖父が酒井家(源氏新田一族系)より分家した初代:杉浦清右衛門を襲名した事に始まる。
曾祖父 杉浦清右衛門(重文、号 杉浦楠陰)は数学・物理学に優れ、養父 井上朝良の母方(貞明皇后)高祖父
宗像清左衛門(素八、号 横井松楠)の引き立てを得て熊本藩砲術指南役(300石)に抜擢された。
熊本藩 宗像家は宮本武蔵を号した祖師を初代とし、江戸幕府四代目将軍以来、歴代の御三家・三公卿・
全国藩主一族系の統括本家である。
杉浦源六(1882年4月1日生:血液O型)は杉浦源吉(重剛)(1855年:安政2年3月3日生)と酒井まん
(1858年:安政5年9月6日生)を父母とし、母智枝からは「〜曾祖父源吉は祖父源六誕生後、すぐに病
死した〜と、お婆さんが言っていた」と嘯(うそぶ)いた。
しかし墓地の存在も無く、少年の頃から疑問を抱いていた。子供の頃に実情を知る友人の母がニャ〜と笑
っては「〜お前さんのオッカさんのお婆(祖母まん)さんは〜」とか「〜お前さんのお爺さんは〜」と何か意味
ありげに言いだしては口を閉じた。この小母さんはエグイさんと呼んだ高齢の父親がいて、養子をとっていた。
今、思えば広い屋敷の一角に庭園付きの別邸が在り、曾祖父源吉(杉浦重剛)と親しかった様な気がする。
またお爺さん(源六)の秘密に20歳6ケ月の頃、恋人との間に男子(杉一、8歳8ヶ月で没)がいた。
やもめ暮らしで実直な曾祖母(まん)の戸籍上の息子にしていた。母(智枝)は小学校3年生の時に碧南の
結核療養所で母親(八重)を亡くし、父兄とは東京と別居し、曾祖母が母親がわりで女学校4年間、卒業し
た昭和6年4月12日に亡くなるまで二人で生活した。母智枝は敬愛する曾祖母の戸籍偽装を常々、怒って
いた。
杉浦重剛 - Wikipedia(しげたけ)は留学先のヨーロッパで病を患い3年を区切りに帰国した。
養生を誕生の地、滋賀県大津(熊本、萩)に帰らず、父親の杉浦清右衛門(杉浦重文、号 楠陰)の郷里、
愛知県三河で静養した。
我が家の隣には大津屋敷に似た二男源吉(重剛)の屋敷が在った。その家で酒井まんとの間に誕生したのが
杉浦源六である。3年間の静養生活を終え、息子源六を託し天下国家の為に召還されて単身東京に出た。
後に重剛は東京で伯爵令嬢と結婚し家族を得る。<晩年の祖父と母の目付きは曾祖父重剛とうり二つである>
(2011/2/24/記載)
杉浦源六は愛知教員養成所(現・愛知教育大学)より東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業し、理系
大学進学塾の研数学館で数学と物理の教師として7〜8年間携わった頃、国家機関に召還されて朝鮮・満州
鉄道布敷設計技師、責任者として勤務、傍ら大陸:日本人会会長に就任した。
満州事変で友人の張作霖が暗殺され身の危険を思い、家族を郷里:愛知県三河に帰還し、身辺整理、
引継ぎをして一年後に帰国した。
しばらくして源六は上京し、東京都葛飾区で様ざまな事業を興し、下町界隈の億万長者として成功裡にその
生涯を終えた。
また郷里の為に碧南と安城を挟む「油ヶ渕」より碧南と高浜を流れ三河湾(衣浦湾)に貫ける灌漑運河を
発案し設計施工運営に着手し、郡と県の事業として完成。常襲的な洪水防災と農業・工業繁栄に貢献した。
(2008年1月4日掲載:10月13日修正)
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<不思議な夢>
1988年(昭和63年)7月19日(43歳11ヶ月)の朝、不思議な夢を見た。夢の情景は萩市の松下村塾か
ら吉田松陰の住んだ杉家に向かう道すがらに山吹雪調の石碑が在った。
数歩通り越して、ふと碑の文面が気にかかり、戻ってこの文面を読んだ。
「江戸の終わりに義に生きた一人の罪不明の男が死に処せられた」と書き記されていた。私の胸が急に
わななき慰めの言葉を捜した。
「この人の様に一人の罪なき男が十字架に処せられた、その名を主イエスと言う」夢から覚めたときバス
タオルを巻いた枕がぐしょ濡れであった。
一晩中、私の体を通して涙した祖霊を認めざるを得なかった。
驚いていると隣に寝ていた息子(8歳)が「お父さん・・・怖いよう・・・」とすがりついて来た。
「どうしたんだ!」
「甲冑を被った侍が馬に乗り剣で闘って・・・怖いよう.」。
今日と、明日の生活に負われ欧米に憧れる世相の中で、日本の古き時代にタイムスリップした夢に困惑した。
枕元にあった紙面に夢の顕現をメモッタとき「江戸の終わり」の隣に息子の夢では「江戸の始め」にも何か
秘密が・・・ふと思いめぐらして記録した。(2007年3月吉日 掲載)
1988年(昭和63年)7月19日以来、戦国末期、江戸初期を中心に一族の系譜探索を開始した。(戸籍上
の系譜)戦国末期、江戸初期、多くの日本人が関心を抱く「宮本武蔵と後水尾天皇」、「お福と春日局」密使。
幕末、明治維新「横井時雄と明治天皇」密史。系統的血筋をたぐり寄せながら新たな発見と史実との誤謬性
を裏付ける調査や現場検証に途方もなく時間が流れ、本業の合間を縫う様に史跡研究を重ねてきた。
「瞑想と祖霊と血筋」が三位一体と成り、歴史的DNA二重螺旋構造を描きながら、時空を超えて今に甦る。
(2008年10月8日掲載)
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<史実 戦国密史プロローグ>
「市川歌舞伎の源流 市川元教と宮本武蔵」
市川元教は藤原鎌足より31代目、小鼓・能舞・唄の名手で市川歌舞伎は32代目が創設。
「市川元教は父親に殺害された!」と語られているが、 史実は小早川隆景軍が羽柴秀吉軍に追われ瀬戸内
を敗走中、頼りとし、逃げ込む先の山口市:高嶺城城代(城主は父親・市川伊豆守経好)として市川元教が
九州の覇者:大友宗麟と連携し、挟み撃ちにされる「懸念と不安」を日本海側から京都に向かって進軍する
兄・吉川元春と、甥で総大将の毛利輝元に秘密書簡を送った。
この戦闘は本能寺の変で回避したが秘密書簡は善処されぬまま疑念を信じて謀られた事故であった。
市川元教は家族の 「生命保全担保」と、自害のはなむけに城下住民公開を要求し、家族の面前で
「一世
一代の能舞台」を公開し、神妙な演技の最終に自害してはてた。
(御参考)「後に、武蔵・左甚五郎・山楽・等伯・探幽と多種号を駆使し戦国を終局。江戸太平の道を創世し
た宮本武蔵は満5歳であった」 。
このとき、元教の父・市川伊豆守経好は遠隔地の出雲:月山富田城に呼び寄せられ、強要した
「告白文」
を根拠に 「自害承諾書」を歴史的証拠に残させた。
かって、市川元教がまだ少年の頃、祖父と父親は先祖が営々と築き上げた吉川家と全遺産を譲渡し、戦国
乱世の争そいを平和裏に回避した。しかして不退転の平和主義者は国を離れ、流浪の旅に出た。
(御参考)「日本民族の根幹を成す、重要目的の為!?」
数年に渡る旅先に、祖父:吉川伊豆守経世、父子三人に、再三に渡って帰国を懇願した毛利元就親子は
今は忙い。戦国乱世の平和を希求し、日本民族の誇りと理想を貫いた親子三代は信義に厚く、超一流の
剣豪(剣聖)で文化人であった。
<戦国末期から江戸初期を立ち上げた元祖の系譜は複雑に操作されている>(2007年4月5日掲載)
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