<絵画と小学生時代>
高取小学校一年生の担任、斎藤カヅ子先生をお尋ねした時
「絵が上手だったわね!」と50年前の印象
を想起された。確か小学校の頃に表彰されたのは
ポスターや写生コンクールに入選したくらいで、
後は50メートルの短距離と相撲(柔道)が強かっただけだった。
満2歳の夏に東京都世田谷区尾山台から母の郷里、
愛知県高浜に引き越し、娯楽施設の無い環境で
田園と花や樹林、家畜類、川や海の魚貝類が遊び相手であった。
<絵画と中学生時代>
高浜中学生になると絵画は具象画(クレヨン写生)
から抽象画(木炭で抽象デッサン)に成り、
すっかり興味を失った。
何れにしても先生がてほどきしてくれた記憶は全くなく、
言うなれば写生時間内にかってに描いていた。
日本の絵画教育は今もほとんど変わっていないと思う。
私が工学院大学で美術を学んだ時も
自主的に工夫して木炭でデッサンした。
海外で藝術大学のアトリエを見学しても
やはり自主デッサンが基本の様だった。
<墨彩減筆画法との出会い>
私が墨彩減筆画法に出会ったのは
和歌山県紀南労壽学園園長・升崎外彦(当時満80歳)
の体験記「荒野に水が湧く」を読み、
昭和47年(1972年)1月15日(満27歳)
に居住地・大阪より主人公を尋ねた。色紙に
バイブルの一節「一粒の麦 死して萬粒を生ず」
と「麦の穂」を描き、
「まだ濡れているが皆には内緒だよ !」
と、お土産に下さった。
老師は禅宗からクリスチャンになった人物であった。
以来、3年半後の昭和50年(1975年)6月11日は
母・61歳の誕生日、横浜に来訪した折に
この色紙をみて墨彩減筆画を始める決心をした。
わが居住地・横浜市・日吉より愛知県・高浜
に帰った母は先んじて
墨彩減筆画法 を昇華し、基本を私に伝授した。
<以上は平成13年(2001年) 春頃に掲載>
<墨彩襖絵との遭遇>
私は神戸市鈴蘭台に昭和44年(1969年)
秋から翌年秋まで住んだ事があった。
この頃に千里丘陵で大阪万博が開催され、
母が2〜3泊宿坊にして京都に通った事があった。
実は母は前年から池坊華道教授を目指して
研究講座のスケジュールに添って愛知県から
京都に定期的にやって来た。
前年の入社した初夏にも山善大阪本社ビル内の寮
に母が訪ねて来て一泊した事があった。
この頃、ビル内に居住していた山本猛夫社長と婦人の茶席に、
共によばれた事が思い出される。
昭和47年(1972年)の初夏に母が京都に来たとき
大徳寺高桐院にともなわれ一服の茶と静けさを味わい、
ここではじめて祖師(先祖)の描いた
墨彩減筆画 襖絵に遭遇した。
<ヨーロッパ芸術鑑賞の旅>
前年の昭和48年初秋に会社をリタイアし
翌年、昭和49年(1974年)春
に三週間で海外旅行に出掛けた。
パリ(フランス)、ロンドン(イギリス)、ジュネーブ(スイス)、
ローマ・ミラノ・アシジ(イタリア)、アテネ(ギリシア)、イスラエル全域
の史跡と美術館巡りであった。
パリのモンマルトルの丘で写生する画家
やルーブル美術館の絵画
が鮮烈な印象として残った。
あれから30年後の平成16年(2004年)春
に再度、ルーブル美術館で変わらぬ作品
と展示構成を辿り、改めて記憶が彷彿
と人間に与えられた鑑賞的記憶力に驚いた。
「一見は百聞にしかず!」と、
実学の大切さをあらためて身にしみた。
<以上は平成21年(2009年)1月8日 記載>


乗馬のマドンナ:(F100号)
第34回 新院展 出品作
平成15年1月8日
産経新聞2003年
初春芸術-「広報堂紙上ギャラリー」
に紹介[優美な詩情漂う上品な作品]
−観賞者感想−
「大自然の中を一頭の馬とのやりとり
の姿が最高 !!」
「数ある作品のなかで、井上先生の描
かれた美女がさっそうと駿馬に跨る姿
がとても印象的でした。」
「今年こそ不景気をはねとばしてほし
い、という井上先生のお気持ちを感
じました。」
「馬と乗り手の一体感が幻想的に描か
れていて心地よい印象を受ける。」
2003年9月5日
芸術公論
9月号表紙に採用
〜世界芸術殿堂〜
掲載
「乗馬のマドンナ」
<金の月桂樹賞>
